ノン・フィクション=小学生時代

生まれも育ちも兵庫県姫路市の的形という自然と海に囲まれた小さな町だ。春先には、潮干狩り、夏には、海水浴、秋には、祭りがある。冬といっても、瀬戸内気候の助けもあり、そんなに雪が積もるような地域でもなく、時折、アイスバーンがチラホラ出来る程度だ。個人的には、大変、過ごしやすい地域だと思っている。そんな地域でもあるので、ほとんどの子供達は、とにかく血色の良い健康優良児が大半なのだ。

そんな頃の自分の小学校時代から話を進めていくことにする。勉強もせず、習い事もせず、塾にも行かず、ひたすら毎日近所の友達と徹底的に遊んでいた。近くの山を駆け回り、川や海で釣りをしたり、貝拾いをしたり、町中を使って鬼おっこ等もやって楽しんだ。

そんな遊びまくっていた子供達が学校というところをどのように考えていたかと言うと、基本的には、給食を食べに行く場所で、なおかつ、放課後に何をして遊ぶのかをみんなで決める場所としてしか考えていなかった。そんな小学生だから、学校へ行く時には、度々、カバンを忘れて学校へ行くこともあり、もちろん、学校へカバンを忘れた事もあった。ただ、さすがに学校の場所を忘れる事は、なかったのが、何よりの救いだ。

おちょくられたら、おちょくりかえす。ケンカをすれば泥だらけになり、ケンカに負ければ「勝ってこい!!」と言われて親父からゲンコツをもらったり、逆鱗に触れる事も多々あった。オモシロい事をする以外は、もう何にも知らない子供だったので、勉強というのは、勉強という漢字を書く事が出来なかったという事もあり、一切、しなかった。というよりも、しなくても大丈夫だと思っていたように思う。

今、考えると恐ろしい話だ。もう何と言って良のやら・・・(汗)そうなると、大変で、小学校6年生になっても九九が出来なかったし、3桁と2桁の足し算も出来なかった。もちろん、両親もその事実を知っていた。

母親は、習い事や学習塾というモノに通わそうしてみたが、全ての対応が未遂に終わっている。ただ、しかし、マクドナルドに連れて行ってやると言う餌を与えれば、私が、ホイッホイッ着いて行く事を知ってか知らずか、何度もその手を使っては、体験的なモノに参加させたのだ。しかし、もちろんのことだが、そう長くは続かなかった。子供心とは、そんなもんだろう。とにもかくにも何かにつけて、最初だけだったのだ。

そんな状態の中でも英会話という習い事だけには、行く羽目になっていた。しかし、両親共に働いており、仕事終わりが帰ってくるのは、8時過ぎぐらいだった。私が小学校から帰ってくるのは、4時過ぎで、習い事が開始されるのが6時で、終わるのが7時だった。もちろん時間帯のタイミングを考えると行く訳もない。習い事に通っていた事すら、記憶から消滅していたのだ。

「あんた!!行ったんか!?(怒)」「え!?何がぁ〜???」と、知らばっくれて行くはずもなかった。心の中で過去のモノとして無意識の内に清算していたのだ。足し算や引き算が出来なかった人間がそのような事実関係を理解出来るはずがないのだ。母親の認識の上をいっていたと言えるだろう。

さて、親父は、というと一応、習い事に行かなかった事を怒ってはいなかったように思える。と言うよりも行ってもないのに「知らばっくれる」と言う事が許されなかった。もちろんバレれば親父からフル・ボッコの目にあう。今、考えると仕付けだったのだろう。激しい仕付けだったのだが、数が多くなれば多くなる程、慢性化していく(汗)そんな訳で、未だに親父は、恐い存在でもある。ただ、この調子で、いつまでも元気でいてもらいたい。

そんな小学生ともなると学校でも様々なエピソードを抱えている。特に面白がってやっていたコトではないのだが、何もかもガチだった。

それは、ある日の家庭科の調理実習での出来事だった。その日は、「お味噌汁とご飯と卵焼きを作ろう」というテーマで、前々から献立や段取り、役割分担を決めて取り組むプロジェクトだった。時を追う毎に授業中では、班が決まり、材料であるとか、様々な事が決められていった。そんなコトは他所に、私は、適当にしか聞いていなかった。「誰かがやってくれるだろう」「出来たモノを食えば良いんだろう」ぐらいにしか考えていなかった。

幸いな事に「名前の順」というモノで席順が決まっていたので、私が座っていた場所には、俗に言う優等生が3人も存在していたのだ。言うなれば、6年1組のクリーンナップ!!功を奏してか、何もしなくて良かった。ただ、さすがに何もしない訳にはいかないというコトなので、私は、お米を4号もってくるという任務が与えられた。

皆さんもご存知のように、当時の私の頭の中では、毎日のようにサーカスが開催されている状態だ。そんな小学生に大変、重要な任務を任せた優等生達は、後で、度肝を抜かれる事態に陥る事になるとは、知る由もなかったのだ。

調理実習の前日夜に「お米4号を持っていく」を必死で覚えて母親に伝えた。

私  「家庭科の調理実習で、ご飯4号使うから、明日の朝、用意しといてな」

母親 「ご飯4号?お米ちゃうんか?」

私  「ご飯4号でええねん!!」

母親 「ええんか!?」

私  「ええねん☆」

ご聡明な方ならば、もう既にこの段階で、ご理解頂けただろう。悲惨な幕開けとなったのは、言うまでもない。

優等生「和田君!!お米4号持ってきた?」

私  「うん。持ってきたで。」

優等生「えらいやん(笑)忘れなかったんやなぁ〜!?」

私  「うん。はいコレ。」

優等生「・・・・和田君!?コレご飯やん・・・」

私  「え、だって、ご飯4号言うたやん!!」

優等生「お米4号やってぇ〜(汗)」

私  「一緒やん!!」

優等生「一緒ちゃうよぉ〜っ(痛)」

私  「え、だって、お米もご飯も一緒やん!!食べれるやん」

優等生「もぉ〜ええわぁ〜っ・・・」

完全に話にならないようだ。こうした状況が家庭科の調理実習だけでなく日々、学校の至る所で起きていたのだから仕方ない。信じられないかもしれないが、本当にあった話だ。当日は、同級生達がつくってくれたおかずと、我が家の炊きたてのホッカホカのご飯に舌鼓を打って事無きを得たコトが印象的だった。同時に、同級生達は、何だかしんみりしていたのも覚えいている。「知らぬが仏」とは、正にこの事だろう。

それっきりと言うもの、私と班を組んで調理実習をしてくれるものは、誰もいなくなった。完全に、ハミ出し者になった訳だ。まぁ〜もちろん、そんな事は、おかまい無しだった。当時の私の頭の中では、「お米=ご飯」となっていたのは、間違いない。

今、考えると恥ずかしくて仕方がない。とにかく、もうどうしようもない小学生時代を過ごしていたのだ。ただ、遊ぶ事以外は、何も考える事が出来ないダメダメ少年期を力いっぱい過ごしていた事に悔いはない(笑)。