昨年10月11月12月のおさらいッ☆
(; ̄■ ̄)<正もあれば負もあるよ)))
しばらくしてから幾つか少しずつ連絡があった。 しかし、その結果は散々なものだった。甘さを宿した申請への結論なんて、やはり想定内の範囲でしかない。電話が鳴る度にネガティブアプローチ。地方銀行からもダメ、信金からもダメ、労金からもダメ、農協からもダメという結論ばかり。もちろん返事や言い方は穏やかそのモノだったけれども内容は背筋が凍り付く程に厳しい。それからも行き当たりばったりで幾つかお願いしまくった。だが各種様々な方面で当然の如くダメダメ光線。さらに兵庫県を飛び出して大阪、京都、奈良への銀行にも考えの幅を広げてお願いしたところでダメ。間違いなく手詰まりとなった。いや、でも違う。1つだけ残っていた。こんだけダメダメ光線を浴びると私も含めて周囲の温度差がとてつもなく冷めてくるのも無理は無い。けれどもココまで来て諦めてはならない。正に七転八倒であった。私は抱えられるだけ全ての書類を持参したうえで、SMBC姫路南支店を尋ねた。既に背水の陣と言っても過言ではなかった。藁にも縋る気持ちだったのだろう。当時担当して下さったのは松井さん。その時の光景は今でも思い出すと涙が出そうになる。失礼失敬はとことんあったに違いない。少し時間も頂けて話を真っ直ぐ聞いてくれた。仕事だから、良い融資の話だから、という事情が含まれる含まれない如何にしても親身になってくれていたのは十分理解出来た。
「和田さん!!、わざわざ住宅ローンを組む為だけに修正申告をしたんだよね。ダメだったら、どうするの?」
「松井さん!!、アカンかったらアカンと思うだけなんですよ。出来るからやってる、という感じは一切ありません。アカンのは100も承知です。ローンが通るからガンバル、ってのはそもそも話がおかしくて順序がマルっきり違いますよ。何でもカンでもやってみないと分からない事なんで、僕が出来るコトは何もかも全力を尽くすだけなんです。僕に出来ないコトがあるから、松井さんにお願いしています。言葉遊びではなくて心底、お願いしています。松井さんを信じてます。軽く聞こえるかもしれませんが今はそれを否定する要素なんて全くありません。もしコレでアカンかった時には単純にアカンかっただけの話なんで理解します。姫路を飛び出すという夢は露と消えますが、また改めて準備を整えて挑戦するつもりです。一寸の光だけを見せて下さい。どうか、どうか宜しくお願いします。松井さん!!力を貸して下さい。」
もし万一ダメだったら・・・、と思っただけで胸が張り裂けそうになり確実に情緒不安定となっていた。目指すべき兵庫県、我が子の幼稚園、妻の期待、親父との激励、そんなこんなのいろいろな野望やら期待やらを考えると居ても立ってもいられなくなる。だからと言って何かが出来るか!?、というと最早、何も出来ない状態。出来る事は全て実行していた。整えられるコトは全て整えた。松井さんを信じるしか無かったのだ。NOの結果は間違い無く周囲に対する信頼が失墜へと導かれてしまう。家庭教師という仕事、個人事業主というポジション、これらの先行きはもう完全に消え失せてしまう。たった3、4年でも自分が築き上げてきたモノがパッと消えてしまう。そればかりでなく、家庭教師という職業で人生を築く、という諸行も実現出来なくなってしまう。焦る気持ちを抑えながら無我夢中で手元の仕事に没頭しまくるしかなかった。
SMBCへ住宅ローンの仮審査申請を行ってから2週間程度が過ぎた頃、松井さんから1本の電話が入った。ハラハラドキドキしながら話を聞き入る。提出前に幾つか質問事項を確認したかっただけのようであったので一先ず安心。正直言ってあまり心臓には良く無かった。さらにその後、2週間程度が過ぎた頃、また松井さんから1本の電話が入った。今度は私の意識的な確認と事業現況や将来への進展性を改めて確認したかったようで、返済能力を見出すことが出来るか否か、を問われた。松井さんから連絡がある度に心臓がバクバクして仕方が無かった。当初より、都銀での仮審査はなかなか難しい、という話を聞いていたし悉くダメ光線を受けていたので、一本目ないしは二本目の電話でスグに断られるとタカを括っていたからだ。その雰囲気を察してもらえていたようで松井さんの言葉から、次の電話では恐らくハッキリした返事が出来る、という旨の報告を受けた。いよいよ覚悟を決める時がきたような気がした。そして、しばらく結論の事は考えないようにして仕事に打ち込んでいた時のことだった。とうとう松井さんから連絡があった。それは2回目の連絡から1ケ月程度過ぎていた時のように思う。着信表示を確認してハラハラしながらも、、、
「はい、和田です。お世話になります。松井さん!!」
「和田さん!!、良い知らせだよ。。。」
その第一声に感極まってしまい膝から崩れた。知らず知らずに自然と目からは涙が溢れて体が震えまくっていた。恐らく言葉が言葉になっていなかったに違いない。そこはさすがは松井さんでした。その時の状況を汲んで頂いたようで、また改めて連絡します、というコトで後日詳しい話をすることで留めた。あまり記憶に無い状態で、もう放心状態。灯火は消えることなく灯り続けることが出来たのだ。それも都銀で。それもSMBCで。みんなの予想を遥かに超えることが出来た。大きな、大きな、大きな漸進だ。冷えきっていた周囲に灯りを灯すべく、まずは旭化成の東さんに連絡。言葉を交わしている間に互いの心に漸進を感じた。1人で出来る事なんて、とってもチッポケだ。みんなが居なければ私は何にも出来ていなかった。それは明確だ。間違いない。松井さんには本当に感謝感激である。この御恩は、今後一生SMBCと付き合っていくコトで果たすべきと決意した。これで、ようやく土俵に上がることが出来たのだ。<つづく>
毎日ブログ2012・1/30『無性に財布を創ってみたくなったので・・・1』
http://www.jyukenjyuku.jp/blog/?p=12101
・・・からスタートしてホンの数日程度で試作イメージが届いた。
試作だからとは言っても、やはり手に取ると何だかワクワクして仕方が無い。
目に見えるオモシロさ、目には見えないオモシロさ、職人さんのコダワリ、
これらがバランス良くコンバインし洗練されているをマジマジと感じる。
一点モノ大好き人間だからこそ、無いなら創る、これ常識ッ!!!
東さん!!旭化成に決めたよッ、、、
もちろんだが他にも幾つか見回って吟味するのが妥当なのだろう。けれども、なるほどザ・ワールド、と昭和53年生まれ、モノコック構造、これらの要素が存在してあったので既に他を吟味する余地は無かった。住宅展示場に車を入れてわずか30分程度の出来事。決して失ってはいけないモノがあったからだ。それは、タイミングと時間そして人の信頼。今という時を大切にしているとリスクは必ずしも最小に抑えることが出来るし、そのうえ小さな効果を大きくさせられるチャンスも得られる。一石二鳥だ。インスピレーションが引き金となって少しずつ話が進んでいった。家を建てる場所は三田市の富士小学校の校区内。とは言っても建てる為に準備していた頭金なんて有る訳が無い。けれども、仕事は安定しつつあったので掻き集めれば何とかなる。誰が聞いても空っぽな自信だろう。そこで具体的な事をいろいろ話している内に1つの問題に打ち当たった。家の話を進めるにあたり最低でも100万円程度の準備金を揃えなければならないという事実。話の品質を高める為には止むを得ないことだろう。気が付けば親父から預かっていた部厚い封筒を目の前に出していた。無意識にもそのままハイッ。勝負をする気持ちで住宅展示場に臨んでいたのだから当然だろう。そこから空気は一新。話に深みを帯びていった。
早々に住宅ローンを組む話になって歯茎を噛み締めるような問題が浮上。それは私が個人事業主であるという社会的ポジションだからだ。個人事業主であるがゆえの諸事情を目には見えないところ、肌では感じれないところ、そういう様々な場面に存在していると実感した。不安になり過ぎて体が身震いしていたのは今でも鮮明。ローンの審査が通り難い、というのだから無理も無い。審査が通らなければ三田に住めない。そればかりでなく周囲の期待や子供達の成長に大きな問題を呈してしまう。住宅ローンの審査なんて簡単に通ると思っていた。甘かった。自分の甘さを誤摩化す為にも今の状況を精査。一般的な背景からして、都銀の審査は地方や信金よりも通り難い、という雰囲気が存在しているようだ。なので一先ず、都銀への審査申請を避けて地方銀行や信金への審査をお願いすることにした。練ったばかりの戦略で、いよいよ仮審査の申請に挑んだ。
審査中しばらく時間もあるというコトなので、申請後の結果に備えるべく打ち合わせで得ていた情報をモトに、私は私にしか出来ない事を徹底的に没頭することにした。それは車のローンの完済や税金未納の確認、修正申告に至るまでの対処だ。車のローンの完済は何とか有りっ丈のお札で片付けて税金未納が無いのも確認。財布の中身は殺風景であるコトを除いては、ここまでは良好。ただ難題に成り得そうになっていたのが修正申告。そんなのは1度もしたことがないからだ。満を持して全ての書類を持参して税務署へ赴く事を決意した。これが、どういう意味を表していたのかは、もちろん全て承知済みだった。もう漸進するしか道は残されていなかったので、気持ちを振り絞るしかない。もちろん、仮審査で結果オーライとなった訳でもない。結果が出てからでは遅いと感じていたし、自ずとヤルべきことならばヤルべきだ、と自負していたからだ。お金も無かったので日々、家から弁当持ちで税務署へ通った。その時の弁当は確かサランラップで巻いた梅干し入りのオニギリ2個だったように覚えている。この時ばかりはサラリーマンの気持ちが少し理解出来ていたように思う。唯一の休憩時間45分に税務署の駐車場脇で気分良くオニギリを食っていると当然のように変な目で見られてしまっていた。けれどもそんなコトはお構い無しだ。まぁ〜確かに変な目で見る気持ちも分かる。なぜなら間違いなく変だったからだ。税務署の休憩時間45分を除いては掛かり付けの担当者と睨めっこ。朝から夕方までの5、6時間程度も居座って勉強や相談に明け暮れて1週間程を費やした。大変、迷惑だったかもしれないが目からはビームが出ていたに違いない。もう本当に必死だったのだろう。大凡その介もあって3年分の申告を全て修正することが出来た。その後、見た事も無いぐらいの税金と並々成らぬ社会保険料の波が押し寄せてくることは覚悟が出来ていた。やらなければならないコトをやったので当然だし、これをやらないと前へは進めない。とうとう準備が整ったのだ。地位も名誉も金もない。手元に残されたのは時間とチャンスと猶予だけ。 タイムリミットは最早、切羽詰まった状態。とにかく仮審査でオッケーが出て欲しかった。何でも良いから成功して欲しかった。 <つづく>
国語大嫌いな私でも最近では、漢検対策も準1級ぐらいまでならば十分に対応出来るようになってきた。これまで大凡3年程度の道のりは過酷だったが毎日コツコツと取り組んできた介はあるようだ。ただし、その副産物として手に入れるコトが出来たものは計り知れない。さらに子供達を導いていくうえで幾つか便利な方法も構築することが出来ている。とは言っても実践しなければ意味を成さないので最近ではとことん実践している。
ヘンやツクリを学ぶ為にもってこいの方法・・・
本来ならば「覚える」という動作が確かに一番手っ取り早い手法だ。けれども子供達にとって「覚える」というのはとても大変なコト。わざわざ子供達の心に潜む邪魔臭い魔人とも闘いを挑む訳にもいかない。そこで私は「見て慣れる」という手法を実践している。これは複雑なコトを無意識な心境に訴え掛け続け、気が付けば覚えてしまっているようにさせるのが狙いだ。
環境の整え方は至ってシンプルで、子供達に毎日、毎日練習してもらえるように願いを込めて私自らが工夫しながら漢字の宿題を手書きしている。だいたい45分もあれば3ステップ分、又は2テスト分の漢字をほぼ全て書き写す事が出来る。ノートにすると12、3ページ分ぐらいになるだろう。
この書き写す作業は一見、無駄なように思うが不思議とこれまでに一番、宿題の達成率が高い。加えて言うならば子供達の手元に一番近い存在と成り得る。だから子供達の苦手な漢字や傾向が手に取るように素早く理解出来て、対処方法を探さなくても速やかに改善させることに繋げられる。大きな効果を掴みにいくよりも小さな効果を積み重ねていくコトの方が大きなリスクの回避にも繋がるだけでなく、想像以上の遥かに大きな効果を得られる。
さすがに三田に住むともなると家庭内での話の進み具合が怒濤の勢いを見せている。妻はよっぽど三田に住みたかったのだろう。まず一番の話の進み具合が我が家での教育環境の劇的な変化だった。三田での幼稚園や習い事、地域の交流というのを妻は妻なりに整えていた。その情景を客観的に見ちゃうと、もう既に後には引けない感が確実に漂っていた。そこで私は私なりに三田のドコに居場所を設置するかを考えた。せっかく移住するのだから何だか新鮮な場所が良い。ワガママを言うと静かなところでぇ〜学校に近くて住環境の整ったところでぇ〜妻の実家から近いところ。そんな都合の良いところが良かったのだが、なかなか事は上手い具合にはいかない。当時、住んでいたのは閑素なマンションだったコトもあって大っ広げに、家庭教師業をやってますよ!!、とはさすがに言い難い環境た。その為にも次に移り住む時は、家庭教師やってますよ!!、って堂々と言えるようなところが良い。とりあえず今で言うところのSOHO物件を探しまくり、練りに練って絞りに絞って歩き回ったが、なかなかそんな上手い具合のところが無い。住環境が整っていて大々的に事業やっても良いところを探すのは至難の業だ。さすがは大阪や神戸のベッドタウンだけのことはあるだけに、そんな都合の良い環境は備わっていないようだ。不動産屋さんに足蹴に通うもののなかなか良い物件が見当たらない。いろいろ一緒に立ち会ってくれていたのだが、富士が丘周辺や小学校周辺では、建築条件付きの分譲住宅ばかりで賃貸物件は薄い発言。そんな話を聞いていて自分には縁もゆかりも無い話と聞き流していた。けれどもその何気ない会話が実のところ起こり得そうもない1つの選択肢となった。人間と言うのは恐ろしいモノで危機的な状況になると不思議な事が思い付くものだ。
そうだ!!家を買ってみよぉ〜〜〜ッ、
もちろん、そんな簡単な事ではない。名案?、明暗?、そんな小粒なアイデアで単なる思い付きであるがゆえ、私のような人間を相手にする人なんて誰一人すらいなかった。加えて言うなれば金も無ければ時間も無い。さらに個人事業主で仕事をやっている社会的ポジションだ。大きな企業に就職している訳でも無いし、それ相応の信頼性だけしかなかった。だからと言って他に選択肢があるかと言うと既に考え付かなくなっていた。欲しいモノは欲しいのだ。後先無視した自分本意な考え方だ。B型まるだし。何とかならないのに、カツカツで何とかなると思っていた。虚しくも考えている内に自分の首が時間とタイミングにどんどん締められていくのを実感していた。既にリミットは1年を切っている。とりあえず「家を買う」というのを目標に動いてみるしかなかった。けれどもドコでどのような相談を誰にすれば良いのか!?、そんな当たり前の事すら分からなかった。そんな訳で、善は急げ、とばかりに姫路リバーシティーのヨコにある住宅展示場へ伺った。入り口早々、積水、ABC、ダイワ、等々といろいろいっぱいあった。そこで目に止まったのが、大きなゾウさん。ハッとした。子供の頃、なるほどザ・ワールド、という番組が好きで好きで仕方が無かったのを脳裏のシッカリと食い込んでいた。そんなヒョンとしたキッカケが「旭化成」というキーワードに引き付けた。そのまま展示場の中に足を踏み入れ、予想通りに圧倒されてしまった。自分達が来るようなところではない、と心身共に感じながら緊張感タップリのままでご挨拶させて頂いた。その時に担当して下さったのが旭化成ホームズの東さんだ。いろいろご案内下さっている内に、お互い昭和53年生まれ、というのを知った。何だか新鮮なご縁を感じながらも、いよいよ深くてスリリングなご相談が始まった。<つづく>
家庭教師をどうしてもお願いしたいんです。でもエリア対象外のようなんですが、、、
、、、というお話。正に空前絶後のナイスタイミング。間髪入れず事情も聞かずに即OKで快諾。エリア対象外だろうと何だろうとお仕事の話であらば可能な限り飛んでいった。早速、翌々日に電撃で打ち合わせを設定。ホームページをたまたま見付けて、何だか他社とは違う、という印象を受けてご連絡下さった。実はこれが最初の神戸のお客様からのご連絡。テンションが上がって上がって仕方が無い。都会やぁ〜、都会やぁ〜、という田舎丸出しハイテンション。けれども気持ち的に不思議な気分だった。なぜならば場所が神戸だからだ。何でもカンでもあるはずなのに、どうして私のところなのか!?、という疑問が先に立っていた。もちろん当日は緊張感まる出し。アワワ、アワワとなりながらも打ち合わせを敢行。小一時間程度で打ち合わせを無事に終えて、幸いにしてご依頼を頂くコトが出来た。特に神戸に住まなくても良いモノを持っていれば問い合わせは必ず頂ける。ただ間に阻まれる障害は幾つかあるだろうが取り除く事は十分に出来る。良いモノはやっぱり良いモノなのだ。神戸だろうと姫路だろうと何だろうと、いかなる場所に居てもお客様のニーズは必ず存在するのだ。これをキッカケに考えが前向きに加速した。
これまで姫路、神戸というイメージでバイパス経由、バイパス界隈という感じを払拭するコトが出来ず仕舞いで移動手段を決め付けていた。移動には大きな費用が掛かる、と錯覚していたのだ。東西の移動だからこそ費用が嵩む。ならば南北の移動だったら嵩張らないはずだ。一番ネックだったのは阪神高速の1回800円のみだったからだ。そこを切り抜ければ良いだけの話。その為にも居場所を少し北よりに考える必要があった。とは言っても兵庫県の真ん中辺りともなると冬場の積雪に少し困ってしまう。改めて地図を開いて移動1時間を半径として100%陸地で面積が覆われるという条件を重ねて円を描いた。南北の移動によって神戸のお客様を確保出来たり、駐車場の代金や移動に関わる費用が安いところ。そして山陽道、中国道、北六甲、神戸電鉄、JRという移動手段を活かせて、電車だろうと車だろうと、交通の便が良いところ。加古川姫路福崎にも地道で1時間圏内、高速道路でも1時間圏内。神戸の中央区や東灘区も1時間圏内。大阪でも1時間圏内。雪は降るが移動不能になる程には至らない、そんな都合の良い場所。どこだ?、どこだ?、どこだ?、といつものように自問自答。徹底的に地図を落書きしまくって直線を引きまくって円を描きまくった。そして導き出した結論が兵庫県三田市だった。付け加えて言うと三田という地名。何だか分かり易いし書き易い。小学校1年生でも分かる漢字だし響きがシンプル。さらに言うと妻の出産や産後のコトを考えた場合でも一石二鳥。実家が極めて近いことから何かありそうだったら実家にも任せられる。そうなると自然と仕事にも集中するコトが出来る。甘い考えかもしれないが里帰り出産という大義名分が世の中には存在しているので、こうなったら甘んじても良いだろう。子はいつまで経っても鎹、なはずだ。早速、妻に話したところ嬉し過ぎて飛び跳ねていた。恐らくのところ、親元気楽、というヤツだろう。確かに気持ちは分かる。
よし!!決まった。三田に住もうぅ===ッ、、、<つづく>
満を持した春先早々に先を見通せない勝負が始まった。まずは一番の大きな難関。親父の説得から幕が開いた。昭和20年生まれで激動の高度経済成長期をズバ抜けて生きてきた男。一筋縄ではいくはずもないのは間違いない。とにかく真っ直ぐな人間。されに加えて言うならば腕っ節の強い芸術家であるがゆえの「我」というエッセンスも注入されている。このような話をすること事態が親父の逆鱗に触れてしまうのは百も承知。互いにとことんピリピリしながら3日3晩、朝から晩まで話をし話を聞いてくれた。姫路から飛び立つ理由、10年後の自分、これまでの反省、今後の計画、その他様々なコトを話した。もちろんだが、烈火の如く激の入ったモノになっていたのは言うまでもない。怒る、というよりも、大丈夫か?!、というニュアンスに近かったからだろう。けれどもやはり、恐いモノは恐い。そして互いに話も尽きてきた3日目の夜、こんなに親父と話したコトはなかった、と我に返り少し嬉しい気にもなった。昔っから厳格な親父。何だよ!!、と思っていた衝動も若かれし多感な時期には付きモノ。そんな当時よりも少しは歩み寄ることができ、理解出来る程に成長していた。話もポツンポツンとなってきた時、私の目の前に少し部厚めの封筒が静かに置かれた。なんや!?、と思いながら手に取り中を見て言葉に詰まり、自然と涙がこぼれた。しばらくの間お互い言葉も無いまま、まぁ〜ガンバレよ!!、、、という親父からの静かな一言。姫路を飛び出しても良いぞ、というシグナルだったに違いない。もう二人に言葉はいらなかった。心の底から本当に心配してくれていたと考えが改まった。同時に自分自身の小ささにも目覚めた。その途端、無意識に感謝の言葉が口から初めて出た。お父ん、アリガトウな、、、胸が詰まり照れ臭くて、何とも恥ずかしい気持ちで仕方無かったが、いつもの親父はいつもの親父の表情に戻っていた。竹を一刀両断したような性格には、広く大きく周囲を見渡せる繊細で慎重な性格が存在している。親父が親父で本当に良かった。
親父との談に達成感を覚えて胸を張りつつ次なる進展に臨んだ。姫路を飛び出してもドコに所在を置くかなんて全く考えていなかったのだ。とにかく姫路を飛び出す、とにかく兵庫県を目指す、という思いだけしかなかった。無計画としか言いようがない。ドコで仕事をすれば一番良くて効率的なのか、を考える為にコンパスを手に取って地図と睨めっこ。やはり考えが進まないので、とりあえず姫路市役所を基準に車で半径1時間としてコンパスを回してみた。すると意外なコトに気が付いた。姫路という場所は、海の部分の占める割合が比較的多い。何だか不思議な違和感を感じた。海に住む人がいるなんて有り得ないからだ。本来ならコンパスの面積部分が陸地ばかりにならないといけないし、そうなるところで仕事をするのが理想。そうすると自ずと「神戸」という選択肢も消える。姫路よりも海岸より、というのが理由だ。神戸は、兵庫県の県庁所在地。選択肢から外すのはかなり勇気のいることだ。だからと言って自分の見出した妥当性に言い訳をしたくない。一先ず分析するべく反例を考えてみた。仮に神戸に所在地を置いたとしても意地費が今以上に掛かり過ぎてしまうのは一目瞭然。家賃、駐車場代金に加えて東西を動き回るうえでのバイパス代金も掛かり過ぎる。加えて言うならば渋滞多発により移動時間を必要以上に切迫させてしまう。神戸に所在を置いて仕事をするイメージが付き難い。うぅ〜ん、、、と決め切らなかった丁度そんな時、偶然にも一本の相談のご連絡があった。恐ろしいまでの偶然であった。 <つづく>