トツゲキ人生「命日」

素晴らしいアドバイスを縦横無尽に頂いたので、言われるがまま見よう見真似に取り組み、そしてしばらく様子をみてみることにした。一様に取り組みも完了し落ち着きを取り戻したので僭越ながら静かにお礼をさせて頂いた。褒めてもらった上に意見やアドバイスそしてノウハウも下さった。そればかりでなく温かい言葉も頂戴したのだからコレは当然のことである。情報だけ聞いて、ハイ!さようなら、というのは例え電話越しであってもやっちゃいけないと肝に銘じている性分。いかなる状況でも力になって下さった方々には必ずと言って良い程、お礼をする、という儀式は礼儀である。お金は無かったけど人としての心は持っているつもりだ。そんな訳でお礼の段取も気持ちを込めて完了させて頂いた。気が付けば期節は既に10月11月に差し掛かっており、熱い!熱い!熱い!と口癖のように毎日言っていたのがほんの数日前となっていた。どことなく懐かしくて涼やかな陽気を受けながらも、毎日が多忙以外の何ものでも無かった。知らぬ内にタウンページの広告も新しくアップされる時期を過ぎていた。ただ幸いにして比較的思いの他、問い合わせ件数も増加傾向にあったので効果は出ているのだろう。また素晴らしい出会いも得られたので、今年も一安心な気分で年末年始を過ごせるような気がしていた。

けれどもここに来て、母親の容態は刻一刻と思わしく無い方向に進んでいた。11月中頃、母の掛かり付けの先生から一本の電話があり、大切な話をしたいから病院に来て下さい、との事だった。とにかく重々しい空気だったので電撃で駆け付けた。到着してスグに小さな部屋に通された。挨拶も手短に様々な資料を見せて下さり最後に先生から一言。延命治療はしますか?、という問い掛けがあった。ついにやってきたのか?!、と心がギュッとなりながらも、延命治療はしなくても良いです、と即断。この事は事後報告ではあったが親父にも連絡を入れ親父の意思を確認した。ただ親父は親父で祖父の状況を脳裏に焼き付けていたこともあり、この件での考えは既に一致していた。既に互いが腹を括っていたのだ。任せる、という言葉の重みを思い知った。そうして最後に、先生!余命は後何ケ月ですか?、と1つだけ大切な質問をした。後1ケ月か2ケ月が勝負だ!、と真っ正面を向いて告げて下さった。先生や病院には感謝の気持ちでいっぱいである。

どうせ最後を迎えるなら穏やかな気持ちで苦しまないように最後を迎えて欲しい、とばかりに立ち話で耳にした「ホスピス」というところを懸命に探しまくった。そこで見付けたのがマリア病院。即日、面談のアポをとり母の代わりとして面談に赴いた。入院している病院でも、場合によっては紹介状を書いても良いよ、と仰ってもらっていたので期待を持ち1、2時間程話をした。幸いにして翌年一番で入院出来るようになり電撃で予約を済ませた。もちろん誰にも気付かれないように手当たり次第の努力を敢行した結果であった事は言うまでもない。他にも自分に出来ることをとにかく考えた。良い思い出を創ってもらう為に片っ端から連絡しまくったり訪問しまくったりした。母親の職場、携帯電話のメモリーに入っている友人、高校の頃からの古い友人、ご近所の腐れ縁、とにかく面識のありそうな人達にアポをとって懇願した。一生に一度のお願いです!母はもう長くありません!どうか最後に良い思い出だけでも創りに来てあげて下さいm( _ _)m、と恥ずかしさなんて度外視だ。我が振りなんて構ってられない。一人でも多くの方々に来て頂きたかったのだ。

知ってか知らずか、私の携帯電話へ母からの連絡が入ってきた。アンタにちょっと話したいことがあるんや!来てくれるか?!、というものだった。既に携帯電話の声は何を言っているか分からない状況だったが、とにかく来てくれ!、という感覚だけは伝わっていた。親子であるからこそだろう。四方八方へ連絡しまくった件で怒られると思いながらも病院へ赴いた。部屋に入る寸前、扉を開けようとした時、何だか嫌な気持ちになった。それでも何の気なしに部屋に入ってその光景に息をのんだ。食事をした形跡がほとんど無いのだ。要するに点滴漬けということ。ご飯を食べる力どころか携帯電話のボタンを押す程の力もない。挙げ句の果てにほとんど目が見えていない状況に陥っていた。病気の進行が早過ぎるのは一目瞭然。それでもさすがに息子が来たことぐらいは判別付いていたようで私が部屋に入るや否や、来たん?ちょっと聞きたいんやけどなぁ〜アンタの年末の休みはいつからや?、と開口一番。正直言って拍子抜けした。12/28ないしは12/29やで、と普通な感じで答えた。その後スグに、アンタはアンタのせなアカンことがあるんやから体に気を付けながら集中せなアカン!!、と母のいつもの尖った物言い。その返しとばかりに、そんなこと分かっとるわい!!、と強気な物言い。でもいつもと違う感じに息をのんで唇を噛み締めた。

いよいよ師走の寒い時期に差し掛かり救急車の音や携帯電話の音に敏感になっていた。そんな緊張感のある一夜、とあるお客様の授業中に電話がずっと無言のシグナルを発していた。休憩時間に少し確認すると全て身内絡みからの尋常じゃない程の着信表示だった。休憩時間とは言っても授業中の小休止なので、さすがに電話には出れなかった。というよりも出たく無かった。既に用件が分かっていたからだろう。もう心の中では、すまない!オカン。頼むからもう少し頑張ってくれ!、と心の中で願いつつ心を鬼にして電源を切った。それは仕事に集中する為だ。不思議なもので電源を切ると気持ちも自然と切り替わり、いつも以上に無心に目の前の授業に対して専念することが出来た。ようやくその日の仕事も無事に全てやり遂げて電源を復活させた。留守電には数件程度のメッセージが入っていたが1、2件聞いて全てのメッセージを削除した。なぜなら全て同じ用件だと確信していたからだ。とにかく弟に連絡をとって状況が安定している事を確認しそのまま帰路についた。その日を境に翌日、翌々日もとにかく顔を出せるだけ顔を出すようにしていた。しばらくは比較的、容態も安定してはいたのだが、そう長くは続かなかった。

年度末最後の仕事を終え、いつものように帰路に就いた。自宅に到着するや否や何も食べずに布団に倒れるかのようにしてバタンキュー。朝まで爆睡してしまっていた。何もかもを一人でこなしていたので、心身ともにヘトヘトだったのだろう。気が付くと既に朝。耳元で電話が鳴り響いていたのもあり目が覚めた。電話に出るといきなり、もうアカンかもしれへん!早く来てくれ!!、という連絡を受け飛び起きた。50分で必ず到着するとオカンに伝えてくれ!、と言って急いで病院へ向かった。もう一心不乱であった。病院に駆け付けると周囲は呆然。母の目は虚ろな感じ、既に人工呼吸器無しでは自分で呼吸すら出来なくなっていた。けれども何かを伝えようとしていたのを感じたので、耳元で声を掛け唇を読んだ。そこには振り絞るように声にならない声で、なる!アリガトウ!!、なる!アリガトウ!!、と何度も同じことを伝えようとしていた。オカン!早くユックリ休んでやぁ〜!後の事はどないでもないわい!!、といつものような返しを耳元に添えた。一瞬、見が合って微笑みながらユックリと目を閉じたまま目が覚める事は無かった。それは12/28。私の仕事が休みになった日のことであった。全ての会話が意味を成していたのだ。