特別な意味を持つ合格

わだぁ〜!!・・・アリガトウ。。。

それは、今だに忘れもしない。私立中学に合格した日からしばらくして食事に招かれるという機会を得た。その日は、私の生春巻きデビューの日にもなった。初めて出会ったのは、彼が小学6年生の中学受験直前4ヶ月前の確か10月下旬ぐらいだった。私は、算数を教える事となり、当時は、学習塾にも通っていたようだったが、そんなに重きに考えて学習塾には通っていなかったようにも覚えている。一先ず、中学受験という合否を抱える勉強を始めたのだか ら、結果はどうであれ最後まで受験を付き合っていきたい、という親心が重なったからだ。

時が経つのも早いもので、4ヶ月という月日は、アッと、言う間にやってきた。試験当日、「とりあえず頑張ってくるわ!!」そう、言い残して受験に臨 んた。そして、結果は、見事、合格!!今までにないぐらいに頭が回転して、スパァ〜ンという具合に取り組む事が出来たようだ。これで、もう言い残す事は、 無いようだ。

見事に中学受験を合格で飾り、「落ちても良い」という気持ちもどこへやら、合格当日は、晴れ晴れとした顔つきで、その後の彼の人生に大きな影響を与 えるとは、まだ知る由もなかった。当時の事は、鮮明に覚えている。本人は、母親の腕の中に包まれて、「アリガトウ!!」と発した言葉(笑)、、、今でも印 象的に覚えている。1月の薄暗い夕方頃だったように覚えている。あまり寒くなかった事だろう。まだ、その時は、お子様だった。あの頃の事を今でも覚えてい るのは、私や親御様だけではないだろうか!?本人は照れくさそうに、「そんなん覚えてないわぁ〜!!」と言っているのだ。表情からしても、きっと覚えてい るに違いない(笑)

良い結果で、中学受験を終えて任務完了。そして、別れを告げた、、、

入学してからの最初の試験を終えたところだっただろうか!?中学1年の5月中旬に再び連絡が入った。数年間の中学受験の経緯もあり、勉強からは少し 遠ざかりたいという気持ちを薄々と感じていたので、一先ず、数学だけの対応で学習指導を進めていく事となっていた。アップダウンはあるものの成績は、比較 的安定していったのだ。

こんな感じで、1年ぐらいは普通に授業を行って定期考査でもそこそこ成績を残す日々を続ける事が出来た。そして、1年を過ぎた辺りの中学2年になっ たぐらいから英語が少しずつ、学校の進路から遠ざかってきているように本人が言っていた。それも中学2年1学期で幾何の問題を解いていた時にも関わらず だ。「身から出た錆」!?「泣きっ面に蜂」!?彼にとっては、幾何の問題がとにかく嫌いで、いつも余計な話に脱線する。ただ、この時ばかりは、脱線した話 に誘導尋問というエッセンスが加えられていたので、ポロッと英語苦手発言が出て来てしまった。

「英語苦手」と「幾何嫌い」がコラボった瞬間だ!!この瞬間は、私にとってもオモシロい瞬間である。彼自身とにかく幾何(つまり、図形)という考え 方は、大嫌いで、それは、最後の最後まで大嫌いだったようだ。ましてや、嫌いと勘違いするのも大好きなようだ。何でもカンでも嫌いと大いに言い放ってい た。授業も少しずつ佳境に入ってきた段階で、「人間の精神状態がチンッ寸前までいくとどうなるのか!?」という質問に対する答えのような事態が起きた。

新中のいつもの問題集で早稲田実業の過去問をやりつつ最後の最後までときつつあったのだが、もう一歩というところで解いてしまうという寸前。座っ て、ペンを持ったまま、考えている最中に意識を失ってしまった。やはり、人間は、考えすぎると、意識が跳んでしまうようだ。「勉強のし過ぎで、気を失 う!!」「勉強のし過ぎで、熱がでる!!」こんな信じ難い事が自分を含めて起こり得た。本当に勉強しているからこそ、考えられない事が起きる。固定観念や 常識的な範囲で、考えてはいけない。枠の中でガンバルという事は、甘さに打ち勝っていない良い証拠。彼が、自分の限界を知った瞬間でありました。

こんな状況をあり、英語の授業も対応させて頂く事となった。とにかく状況は、思っていたよりも遥かに深刻で、「宿題は、どうなん!?」と言えば、 「やってません(汗)」、「宿題をしてないなら、辞めてまえ!!」と、もうこんな会話のやりとりで、毎回授業中に宿題をやったり、やらなければいけない事 をやったりしていた。

こんな口癖のような発言でも彼にとって大きな意味する一言であると理解する事が出来たのは、それから数日が経っての事だっただろう。それは、親御様 からの一通のメールがキッカケだった。それは、「辞めてまえ!!」というのなら、「他に良いところを紹介しろ!!」という内容だった。確かにおっしゃる通 りだ。この時ばかりは、私も目が覚めた。次に、「辞めてまえ!!」と思ったら、彼に度肝を抜かす程の対応で、接する事にしようと心に誓った。そうしない と、この子供の問題解決には、至らないからだ。私も大変、良い勉強になった。この考えは、今でも生き続けている。

そんなこんなで、「数字(成績)があまり芳しくない。」と言うコトで、家庭内がギスギスし始めていたのを今でも覚えている。ただ、何かがあったよう で、私もよくは、知らないが、ある日、突然、学校の数字(成績)に対して、母は触らないようにしたというのだ。ご家族の中で何かがあった事については、反 応しても言葉に出しては、何にも言わない方が良いと思ったので、未だに何があったかは、不明のままだ。そぉ〜っっっとしておいた方が良い場合もある。こう いった時は、感覚的に判断して、行動に徹するべきだろう。

それから数学と英語をずぅ===っと、順調に対応させて頂いていた。彼も中学校を卒業するという微妙な時期に差し掛かった時、ご家族揃ってマンショ ンに引っ越すという事になった。近々、「自宅を建て替える」という竣工式というものがあるらしい。その間、学校の近くのマンションに引っ越し、いつものよ うに勉強する事となった。長い間、御付き合いさせて頂いていると生活環境にも大きな変化はつきものです。

その折に、いまでも覚忘れられない出来事がある。それは、英語の授業の話だ。仕事には、一切、手を抜かない私あのだが、1パートだけ文章を和訳英作 せずに本人に任せてしまったところがある。それは、「戦争の話」の文章だった。今でもクラウンの教科書には、記載されているので、それを読む度に涙が出て くる。戦争の悲惨さが私の心の中に訴えてくる訳だ。後悔の念が込み上げてくる一文であります。

そんなこんなで、中高一貫という事もあり、形式的な卒業を無事に終えて、祝高校生!!オメデトウとばかりに喜砲をパンパンするが、かなりうるさかっ たので、2発目は、ひかえた。もちろん、写真を撮って事無きを得た。それから出来立てホヤホヤのお家にお伺いさせて頂いて、あれこれ質問させて頂いてオ フィスを持つことへの夢が膨らんだ結果だ。良い影響を与えてもらったと思う。

高校1年が過ぎようとした高校2年生の4月頃だった。大学への進学について、事ある度に話をする機会が増えた。

和田 「どこの大学考えてるん?」

I君 「法学部や経済学部に興味があるから京都大学にいこうと思うねん」

和田 「ほんまか、高校2年生の時にでも1回は、大学を見に行っておかなアカンで!!」

I君 「わかった」、、、

>>>京都大学で開催されたオープンキャンパスに出席!!>>>

和田 「どうやった!?」

I君 「行ってきたよ、おもろかったわ(笑)」

ただ、私の中で、何かが引っ掛かるものがあった。中学入学当初は、将来の夢について、ハグラカされていたのだが、ポツポツとお医者さんという言葉が 出てきては、消えていくを繰り返していた。それがいつしか言葉にすら出てこなくなり、おかしいと思った私は、あまり刺激を与える事なく聞いてみる事にし た。

和田 「将来の夢ってほんまに京都大学へ進もうと考えてたんか!?」

相変わらず言い難そうにしているので、、、

和田 「何でもええから言うてみぃ〜!!何やねん???」

I君 「ほんまは医師になりたいねん」

高校2年生4月の面談で、学校サイドから「医学部受験には4年掛かる」という厳しい現実を通告されたようで、そんな大切な事を私に告げる事もなく、 日々、授業が過ぎていたのだという。

和田 「何でそんな大切な事、言わへんのや?とりあえず、みんなで頑張ったらええやんけ!!」

そんな事に屈する事も無く、高2の5月から医学部合格に向けて、いよいよ本格的に歩み始めました。もちろんだが、当初は、医学部医学科への合格実績 としては、私としても受験塾家庭教師としても、まだまだ薄かったので、私も覚悟を決めなければいけなかった。

もうそうなると、話はやりたい放題進んでいった。とにかく見えないモノがたくさんあったのだから、動き回るしかない。まずは、情報収集だ。実際、本 人は、神戸大学医学部を目指していたのだ。とにかく聞き取り調査を経ることにする。調査の方法は、至って簡単、大学周辺に待機して、医学部医学科生と思わ れる人間に片っ端から路上アポイントメントをとる。確か50人を目処として、情報収集を行うこと2日程度でやり終える必要がった。期間を延ばせ延ばす程、 相手に警戒心をもたれるからだ。この点では、学生達から様々な情報を手に入れる事ができた。勉強方法から始まり、学校生活、大学そのもの、教授陣の特色、 卒業後の将来性、などなど雑談程度だから1人10分程度でいろいろ話を聴いてもらった。もちろん私1人だ。情報を調べるのに費用を請求する等というセコい 真似はしない。次に教授陣のごく一部の方々に話をしてもらえる事が出来たので、幸い良かった。その時、ご協力頂いた教授、准教授の方々には、大変、有り難 かった。これらの内容を精査して伝えることが出来た。

調べてみて思ったのが、医学部医学科という枠の中は、他学部とは、少し違った特色をもっている事を理解することが出来た。簡単に話をすると研究医色 が比較的、他の大学と比べて強いという点、神戸大学であれば兵庫県を中心として、岡山大学であれば岡山を中心として散らばっている点、中国四国地方では、 臨床医色が比較的強いという点、研究医と臨床医の区別化は主に学業環境と地域性によりけりである点、などの世間には出ない様々な情報を入手する事が出来 た。さすがにこれらの内容は、学校の順位や模試の偏差値では判断し兼ねる部分だ。

それと現役合格者の割合が全合格者の割合の5%から20%程度のようだ。様々な要素が絡み合って各大学の現役合格社の割合は、まちまちだが、せいぜ い20%程度考える事が無難だろう。他の80%は浪人生と言う訳だ。これは、恐ろしい話だが、模試の結果に浮いてこないではないか!?医学部浪人生恐るべ し(汗)ただ、取り組む価値は、大いにある。

高校2年生の5月にして大きな取り組みが実施される事になった。もちろん5教科7科目への挑戦!!英語、数学、化学、に絞り込んでの対応。センター 試験も個別前期も個別後期もいかなる対応も私が行う。ただ、物理だけは、ご本人の力を借りて、周囲の環境は、こちらでプロデュースするというものだ。もち ろん、経費節約の為だ。いろいろ彼自身も考えているようなのが、涙ぐましい。
残すところ21ヶ月程度。。。

合格する事を考えるよりもまずは、先の見通し(合格しそうだという期待)を立てる事が先決だ。なぜならば、やらないといけない事が膨大にあるから だ。単純に考えてみよう。21ヶ月程度を7科目で割ってみて下さい。1科目に掛けられるのは、わずか、3ヶ月程度しかないんです。本来ならば、1科目 10ヶ月ないしは、12ヶ月掛けるような内容を、たった3ヶ月で考えていかなければいけない。それにセンター試験や個別前期、個別後期を含めた考え方でな のです。もう背筋が凍るような思いであるのは、言うまでもありません。この段階で、「無理そうだから、、、」「彼には、出来ない、、、」とか、その場の感 情で左右されていては、彼の幸せはなかっただろう。一切、そんな事には、触れずに黙々と邁進するだけです。

夏休み、冬休みを経て、いよいよAO入試一次試験に臨む時がやってきました。出願書類を滞りなく作成し、出願するまでは良かったのだが、2つだけ気 になる部分がありました。それは、彼自身あまり体調が優れないという点と神戸大学サイドが研究医を欲している点だ。これらの2つの点が今後、彼の受験に大 きな影響を与える事は、まだ誰も知る由もありませんでした。

この病気の内容は、多くは語れないので、彼の生活に支障が無い程度に留めておく事にします。彼は、小さい頃にある病気に掛かっており、現在も ずぅ〜〜〜っと抱えたままでいます。つまり、ほとんど、一生治る見込みが無い病気を抱えているんです。しかし、当の本人は、ピンッピンッしています。言う なれば緩解状態!!医療系に携わる方々は、ご存知の方も多いと思われますが、そういう事なのです。この病気の事を隠した状態で受験に臨むか!?あるいは、 突き進むか!?そこは、もちろん、私の生徒です。突き進みました。それも、胸を張って、、、当時の彼いわく、「仮に隠して合格しても6カ年やっていけるか と言えば、やってはいけるが、自分に納得いかないと思う。それやったら、ちゃんと正々堂々と臨んで、評価してもらいたい。それで、不合格であるならば致し 方ない。大切なのは、受け入れてくれるか、どうかや!!どっちにしても絶対に医者になったるけどな。」それに加えて、神戸大学サイドが研究医を発している 背景も裏付けはとれている。それでも、彼自身は、原則的には臨床医として6カ年を歩んでいく覚悟で受験に臨んだのだ。恐ろしい高3である(汗)

いよいよAO入試一次試験の合格がやってきた。。。もちろん3倍の枠は、見事にして合格!!後は、2つの問題をどう乗り切るかが、ポイントだ。けれ ども、彼自身、乗り切る気配は一向にない。自分を評価してもらうだけの一点張り(痛)もちろん、この件で、二次試験直前で、一悶着あったのは、事実だ。私 は、何が何でも合格させてやりたいという気持ちが多い。だから、何でもする。何がどうこうしようと、「合格」という2文字を手に入れる為なら、人間的な感 情さえ、ど返しする。しかし、それとは、逆に、彼は、「今回だけは、俺の好きなようにさせてくれ」と言う。もう、そんな葛藤のオンパレードだ。ちなみに、 2人も姫路出身である。

AO入試は、二次試験が実施されて、試験終了後、連絡があった。やはり、思っていた通り、体調の事と研究医の事が題材に挙げられて質問攻めにあった ようだ。想定内の状況に終始、和んだ面接だったようだが、そんな彼からの口から信じられない言葉でた。

「和田ごめん。アカンと思う。。。和田の言う通りやった。。。」

正に体が凍り付いた。あまり多くは語らなかったのだが、私の言う通りであればある程度の察しはつく。つまり、上記で挙げたような2点をつっこまれた という事だ。想定内の質疑だったにも関わらず、大学サイドにとって、適した応答ではなかったのだろう。恐らく、彼自身やりきってきたのだろう。この時か ら、だんだん神戸大学医学部医学科に対する将来的なビジョンと魅力感心が薄れていったのは確かだ。

AO入試二次試験も終えて、確固たる信念で一般入試を臨んで勉強しなければいけなくなった。ただ、本人に迷いがあるのは、6年も7年も付き合ってい れば手に取るように分かる。何かがおかしい。神大AO受験前の情熱が、、、という感じだ。おかしい。このままでは、、、と、思ってしまう場面もあった。た だ、どんな状況でも時間だけは、過ぎていく。そうこうしている内にセンター試験がやってきた。

結果は、至って悪くなかった!!むしろ、思った通りの結果だったように思う。その得点率は、92%を確保☆つまり、大概の医学部医学科であらば、ど こでも合格水準の土台に乗っかってくる点数である。もちろん、神戸大学医学部医学科の合格率(過去)を裕に超えていた。「心配し過ぎだったのか なぁ=!?」と不自然な感情に見舞われながら、個別前期を受ける事となった。と、その時、、、

本人「イチ浪は、有りやと思う。。。」

何を言い出すかと思ったら、さすがに驚いた。なぜならば、まだ個別前期を受験する前の事だったからだ。確かに個別前期一本掛けで、勝負に臨もうとし ているから、特にイチ浪を考える事は、不自然な事ではない。自然な事だ。とにかく、ここまで来ておいて、考えられない発言なのだ。
和田「なんでや!?まだ終わってへんやんけ。受けてもないねんど。どないしたんや?」

本人「ほんまに神大でええかと思って、、、やっぱり、正直、引っ掛かってんねん。やりたい事とちゃう。」

この言葉、私の心の中にグサッと突き刺さる想いがあった。状況は違えども自分もそういった気持ちになって決断した。しかし、それは結果的には良い方 向に進んでおり、今の自分があるからだ。自分の立場的なモノもあったので、この段階では、何も言えなかった。しかし、これは、相談すべき要素!!必ず家族 と話すべき内容だったので、それを経たうえで、個別前期に臨んだのだ。

結果は、不合格。。。同時に、イチ浪決定。。。

私とっては、とても悔しさが残る結果だった。ただ、これは本人にとって前向きな方向性を導く結果であるという事を学んだ。神戸大学医学部医学科への リベンジを果たす事と落ち着いて自分の方向性を見付けだす事を目的として、もう1年間だけ気合いを入れる事になった。3月に結果を告げられて、そして、5 月が終わり、7月8月を経て、11月12月に至った。イチ浪の一年間を通して、大学説明会に幾度となく参加し、オープンキャンパスにも進んで参加した。様 々な人達や先輩達と言葉を交わすうえで、一番、自分が進みたい方向性であると確信した。 そんなこんなで、神戸大学への気持ちが次第に愛媛大学へ気持ちが傾いていった。

「なぜ、愛媛大学?」

それは、母親の実家が近いという事と自分がやりたい将来性と一致しているという事が大きかったからだ。これが自分の将来性に大きな衝撃を与えてくれ るのは、やはり、愛媛大学であるはずと最終的な確信に至った。センター試験直前の出来事だったが、焦りは一切無い。むしろ、腰を据えてじっくりと考えたう えでの結論だ。もちろん、迷いは一切無い。愛媛大学を個別前期で出願してしまうと神戸大学のリベンジを果たす事が出来なくなる。それでは、ダメ☆だから、 神戸大学を前期で受験して、愛媛大学を後期で受験する事になった。何とも攻撃的な出願であるように思える。

ここまで来たとしても例え1回でも入学試験料金をケチりたいという気持ちは変わらない。イチ浪となるともう一方の方向性として考えなければいけな い。その大学として挙がったのが同志社大学の商学部と経済学部への出願だ。もちろん、センター方式を活用する事での出願だ。一般入試には出願しない。

今年もセンター試験は、91%を超えた。さすがだ、、、と、言うよりも昨年に残念な結果を得たのが思いの他、納得出来ない。攻撃的な点数を獲得出来 たので、昨年同様、気合いを入れていく事にする。そんな矢先の結果が出た。もちろんの事だが、同志社大学商学部へは、あっさりと合格した。けれども、合格 してもぜんぜんパッとしない。そんな事もあろうかと、一応、念の為、経済学部にもセンター方式で出願しておいた。それは、出願するだけのメリットが大きく あったからだ。合格発表日が、神戸大学医学部医学科の合格発表の次の日だった事を考えると適切な配慮だろう。今回は、本命の愛媛大学への入試が後期日程で 待機していたので、一応、念の為、罠を仕掛けておいた。

不合格、、、

これは、学力があったとか、無かったとか、そんな次元の話では収まらないような何か不自然な感覚がする。どうしても、頭に過るのが「病気を患ってい る。。。」と、言う点だ。治る病気ではないからなのか、どうかは、不明だが、とにかく不自然な感じがする。センター試験だけではなく、過去問でも過去10 カ年以上に渡って、個別前期で80%超えを確保しているのだ。つまり、解けない問題、出来ない問題は、皆無。もちろんの事だが、今回も見直し査定を行った ところ8割以上を軽く超えていた。まさに合格圏内だ。

それにも関わらず、残念な結果(汗)私が抱える他の受講生は、センター86%確保で、個別8割スレスレ!!その状況でも合格しているのだから、そう 考えても致し方ない。とにかく、どうも納得出来ない部分が多かった。ただ、やはり、合否判定には、センター、個別、面接、を総合評価して結果が出されると 言われてしまえば、それまでなのだ。突きつけられた結果の悔しさよりも、むしろ、サラッと空かされたような結果に激しい悔しさを感じた。一概には、言えな いが、今だに不自然な部分を感じている。とは、言っても結果は、結果だ。本命なる愛媛大学に照準を絞って情熱をフル稼働あるのみだった。

これだけでは無かった。恐らく同志社大学経済学部にも合格するだろう思っていた。普通、そう思うだろう。だって、センター試験で9割確保を成し遂げ たのだ。傾斜配点を考えると、まさに合格圏内。ただ、ここでも甘い考え方があり、商学部への合格の際に入学手続きを行っていなかったのだ。その甘さゆえ、 信じられない出来事が起きた。さらに追い打ちを掛けるかのように同志社大学経済学部から不合格通知なるモノがやってきたのだ。

目はテン・・・・

なぜ!?彼よりも点数の低い受講生がバンッバンッ、合格しているのに、なぜ!?。。。ここでも社会の厳しい風が吹き荒れているに違いない。私立なだ けに、もう何が何でもな感じなのだろう。「制度として」捉える受験生よりも「信念として」捉える受験生を欲するのは、当然の事だろう。確かに彼の受け方や 取り組み方では見え見えなのだ。

まさに悪夢・・・・

この段階で、どこの大学も合格していない。3月4日を過ぎた時期にも関わらず、どこの大学も合格していないのだ。この時期になると私立の後期日程で すら出願期間は、終了している心の拠り所一切無しって訳だ。残されたのは、本命の後期日程受験までの6日間程度しかない。この6日間に考えるコトは至って 簡単な事だ。それは、落ちれば即2浪、あるいは、合格して大学に通うかだ。たったそれだけの事を考えれば良いのだ。まぁ〜そうは言っても考える必要なんて まるでないのだが・・・。無論、合格して愛媛大学に入学するのだ。

「ならば、何をしなければいけないのか?」

それは、勉強するのみ。これだけで合格する。簡単なことではないか(笑)本人いわく今まで以上に真剣に勉強したらしい。2浪は絶対、いけない。なの に2浪の風が吹いている。本人いわく「無我夢中で英語だけ勉強したわ。とにかく復習、復習の毎日やったで。」完全に切羽詰まった状態になった。そして、愛 媛大学医学部医学科の正に運命の合格発表の日がやってきた。これは今まで一番心に残っている事だろう。彼との出会いに感謝しなければいけないことだ。

AM9:30頃に起床。今日は、小学校6年生からお世話になっているお客様の合格発表で、7年間6ヶ月の月日は早いもので、小学生だった本人は既に 高校を卒業するぐらい大きく成長していました。ついでに私は、年齢を重ねていて、階段を駆け上がれなくなりつつありますが・・・。とにかく今日はかなりド キドキしていました。さて、朝の身支度も完了出来たので、パソコンを起動>>>前もってお気に入り登録していた愛媛大学の合格閲覧ページを開く。その瞬 間・・・まだ、アップされていない。。。しばらく待つ。時計を見る。いよいよAM10:30頃になってきた・・・ページを繰り返し最新状態にアップする。 すると・・・開いた。合格者番号一覧。・・・しばらく沈黙・・・とにかく番号を探す。。。「あった☆あったぁ~☆」 ※ 注意 ※ テンションが上がると 無意識の内に2回叫んでるようです。

まさにこの瞬間、10数年前の自分の合格発表の時の感覚を思い出す。確認後、即対応の私。スグに本人の携帯電話に電話をする。・・・繋がらない。次 にご両親の携帯電話にも電話する。・・・繋がらない。それでも繋がらないので、自宅に電話を入れてみた。・・・やはり繋がらない。。。やはり、繋がらな い。一先ずお客様のご自宅に急ぐ。とにかく急ぐ。三田市ー姫路市間を45分程度で動けたのは、恐らく一生に何回かしかないだろう。合格発表を見て何度も不 合格だったら、なかなか見れなくなるものらしい。確かに気持ちは、よく分かる。それでも私は、一切、躊躇せずに確認しまくっていたのだが、、、、。

ピンポン!!

和田「オハヨウございます。」

親御様「オハヨウ。見た???」

和田「見ましたよ。連絡が繋がらなかったので、確認しに来ましたが、やっぱり合格ですよね!?」

親御様「合格だよ(笑)」

和田「これで、お医者さんになれますね(笑)」

この間、興奮冷めやらぬ状況で、自分でも何を言っていたかをあまり覚えていないが、とにかく叫んでいました。

和田「朝御飯食べずに出てきたので、お腹ペコペコですぅ~(笑)」

親御様「マフィンしかないけど、食べる!?」

和田「アリガトウございます。是非、いただきます。」

そんなこんなで朝御飯をご馳走して頂き、大満腹☆☆☆

和田「ほんなら今から愛媛県行こか!?今日しか作られへん思い出作りにいこう!!」

この時点で、昼12時過ぎ。

兵庫県姫路市から愛媛県松山市に3時間30分程度を掛けて動く!!

和田「とりあえず愛媛大学医学部に寄ってから記念撮影して、本学に向かおかぁ~!?」

I君「ほんなら、そないしよ!!」

数時間後、愛媛大学医学部に到着。

和田「どこやろなぁ~!?あ、あれや!!」

I君「合格発表ってな感じやないけど、自分の合格を実感してきたわ(笑)」

次に本学に寄ってから記念撮影となりました。高速道路は、事故の為、通行止めとなっていましたので、一般道路で向かいました。向かうこと30分程 度、愛媛県の市街地を横目に目的地の愛媛大学本学に向かいました。

本学、到着。

入り口の受付で写真を撮ろうとした時でした。

学生「撮りましょうか?」

後ろから声を掛けてくれたのは、ここの学生さんではありませんか!?

本人「あ、すいません m(_ _)m 宜しくお願いします。」

先生「めちゃめちゃ、ええ人達やな(笑)」

本人「そりゃぁ~絶対に県民性やで!!見習わなアカンわ」

先生「ほんまやで!!」

それから、写真も撮り終えたので、思い出作りはまだまだ続く・・・。

先生「せっかく松山に来たんやから道後温泉でもはいって帰ろか!!」

本人「そないしよ」

って、事で、ちゃっかり温泉に入ることになった。もちろん、近くの大衆浴場にいった訳で・・・かなりユックリと温まりました。帰りには、お土産を手 にして、家路に向かったのでした。

愛媛県>>3時間30分>>兵庫県 姫路市

本人「晩御飯は、どこで食べる!?」

先生「ラーメン屋さんでええか?」

本人「うん!!ええで」

授業合間の休憩時間のように喋りながらご飯を食べる。

先生「もう数分で、お別れやな。。。まぁっ、それでもまた帰ってきた時にでも連絡ちょうだい」

本人「うん。また連絡するわ!!」

店を出て、数分後、家に到着。ご両親の方々が出迎えてくれました。

両親「積もる話もいっぱいしたやろ!?ほんまにアリガトウ」

本人「アリガトウ」

先生「こちらこそ、今まで本当にアリガトウございました。」

鬼の目にも涙・・・喜び、寂しさ、感謝の気持ち、言葉には言い表せない感情が心を突く。小学4ヶ月間、中学3年間、高校3年間、浪人1年間。家庭教 師としてお付き合いさせて頂いた期間は、7年4ヶ月。泣いたり、笑ったり、ケンカしたり、、、いっぱいいろんな事がありました。

実質的に医学部を目指して、34ヶ月間。ほんまによく辛抱した。ご苦労さん!!

そして、それから2、3ヶ月したぐらいにI君本人から連絡をもらった。連絡してくる時は、たいてい私に自慢話をしてくる時か、何とかならないか話を してくる時ぐらいなものだと相場は決まっている。メールアドレスの変更すら送ってくれていなかった事を考えると、学生生活がよっぽど楽しいんだろう。本当 に嬉しい限りだ。内容というのは、個別試験の成績開示があり、早々に自慢をしたかったようで、連絡するや否や「とにかく見てくれ!!」と言うものであっ た。仕方が無いので、仕事の手を休めて、確認すると、、、

「おっ!?面接結果が満点ですやん。」

思わず言葉が出てしまった。センター試験の結果が、満点って言うのは、特にそう珍しい話ではないのだが、面接満点ってのは、さすがに珍しい!!大学 サイドから「100%うちに来てくれ!!」ってな感じの意思表示を頂いたような気持ちになる。「こちらこそ宜しくお願い致します!!」というような、まさ にこんな気分になる。

高校2年生の5月から医学部医学科への挑戦を決意し、受験勉強を始動!!いよいよ受験直前に入り志望校を受験したものの残念な結果に終わる。そし て、リベンジを兼ねて一年間の浪人を経て、愛媛大学医学部に見事、合格しました。彼は、これで、ようやくお医者さんになれちゃいます。途中、想定外な事 は、たくさんありましたが、しっかりと乗り越える事が出来ました。人生何十年の内のたった34ヶ月の辛抱。その辛抱と御両親の支えが家族みんなの夢を引き 入れました。小学校2年生からの夢が叶って本当に良かったです。彼は、自分のやりたい事を全部やって、納得して、満足して、私から卒業していきました。