トツゲキ人生「告知」

うたた寝とは言えども完全フリーズ状態での仮眠。夕べも遅く朝も早く、考え事に悪戦苦闘していたので無理もない。そう易々と頭が動く訳もなく、何なん?、とばかりにシッカリしない足取りで立ち上がり、目を擦りながらトボトボと母親と一緒に掛かり付け医師の元へ向かった。さすがは総合病院だ。待合室では大勢の患者さんがいた。そんな光景を横目に座るところを探していたのだが、少し奥のところにある待合室で看護師さんが手を挙げているのに気付いた。足早に寄ってきて、息子さんですか?、という問い掛け。ドギマギしながら返事をして私一人が入室することになった。無論、母親は外で待機である。入室後、挨拶も早々に何気ない会話をして下さる先生の説明よりもむしろ先生の目先に気を取られ、何処かで見慣れた数値の羅列を静かに読んでいた。そしてあるラインに目が留まり絶句。頭脳は停止状態。真っ白になった。聞かなければならない質問が頭の中で駆け巡るが、その答えは既に想定内の範疇。葛藤があった。知る為の質問というよりも確認の為の質問という方が意味的には近い。そして無意識の内に言葉がこぼれ落ちた。

「この数値・・・。先生!、もうレベル4ですよね。母は年内もちそうですか?」

私のこの一言が先生の表情を一瞬止めてしまった。説明も無しに数値を見たうえで的を得た発言を取り乱すことすらせずに冷静沈着なままで、尋ねにくい内容を逆に尋ねられたのだから無理もない。それを境に先生も察して下さり、検査で判明したいろんな画像といろんな数値を見せてくれた。恐らく本来説明しないような専門的な知識も添えて説明して下さったに違いない。話の内容からして十分理解出来る。陰り無く雲一つ無く説明して下さった先生には心の底から感謝の念を抱いた。それで十分だった。一様に話も終わり最後に先生から、本人に伝えるかどうか、を尋ねられた。もちろん私の気持ちは既に固まっていた。母親には残された半年程度という人生を有意義に使い切ってもらいたかったからだ。今まで親孝行と言えるような事は一切何もしていない。成博(なるひろ)という名前をつけてもらったのに自分自身、納得出来るような事なんて何も成し遂げてすらいなかった。本当に情けない人間である。だからこそ、告知をする、ということを先生に代わって私自身がしたかった。本当に勇気のいることである、と承知の上で先生に懇願し了承も得られた。これは、親子共々お互いに覚悟を決める、という瞬間。母親にとっても何よりの親孝行となるだろう。成長した自分の姿を見てもらう良い機会なのだから。

「お母ん、緊急入院やわ!、もう俺が勝手に決めたけどええやろ、、、」

その言葉が発せられる事を知ってか知らずか、終始落ち着いた様子だった。しばらくして入院の経緯や方法といった説明を受ける為、母が先生に呼ばれた。その束の間、母に気付かれることの無いように親父へ連絡をとった。それは母に変な心配を掛けたくなかったからだ。こういうことは自ずと分かるものだ。自ずと分かることは自然の流れに任せておけば良い。人として息子としての配慮だった。入院に関する説明も大凡終えて看護師さんと共に入院手続きを進めることになった。その間少し時間も掛かるので母から、自宅のベットのところに置いてある荷物を取ってきてくれ!、と言われたので取りに帰ることにした。既に一息つかないとやってられない心境だった。まさか、こんな事になろうとは想像もしなかったからだ。缶コーヒー片手に車に乗り込みエンジン始動。運転中いろんなことを考えて考えて考え抜き、そうこうしている内に何も考えがまとまらない間に到着。ベットの前の荷物を見てハッとした。全てが全てにおいて荷造りが整っていたのだ。ましてや普段から片付けないところが目を疑うようにキレイに片付けられていた。その光景たるは深呼吸をしても落ち着かない光景。母を超えられない偉大さを感じた。同時に母はもうココへは戻ってこないつもりだ、とも悟った。もう自分では理解していたのだ。頭が真っ白になった。もう言葉が出ない。居ても立ってもいられず早々に荷物を積み込んで車を走らせた。何処をどうやって走らせたかは全く覚えていない。気付いた時にはいつもの走り慣れた道を走り、そして病院に着いていた。再び深呼吸をして気持ちと表情を平常心に保った。ナースステーションで母の部屋番号を聞き、急ぎ足でフロア目掛けて駆け上がった。休憩所らしきところで準備が整うのを待っていた母に荷物を渡して、その場を後にした。これからヤルべき事をやらなくてはいけない。より一層決意が固まった。何事も成し遂げなければならない。それも絶対だ。